09 幸せの絶頂


西から来た前線が、ゆるやかに流れて芽吹川に大粒の雨を降らせていた。明日には北へ抜けるとテレビの気象予報士は言う。
雨が降ると仕事がなくなる。客がいなければ勿論仕事はないし、雨が降れば客足が減るものだ。
おかげで今日は朝から自宅待機で、久しぶりの休みにありつけた。
それでも省助は家の掃除をするのも、溜まった洗濯物を洗うのも面倒で、ごろごろと転がっていた。
平日なので芽吹も学校に行っている。やることはあるが、やる気が起きないのが省助であった。
お昼の天気予報が明日の天気が晴れることを告げ、省助はテレビを消した。そのまま背中を倒して寝転がり、目を閉じる。
雨音がいい感じに響いてくる。すぐに睡魔はやって来た。
うとうととし始めた脳裏に、乳白色の霧がかかっていった。ぼんやりと、何か黒い人影のようなものが見えてきた。
誰かいる。芽吹だ。それも、一年前の芽吹だ。
俯いて、座っている。場所はいつもの、芽吹川の土手だった。
マフラーを、鼻の頭までかぶって、寒そうに頬を赤くしている。何か言いたそうな瞳で省助を見つめて、でも何も言えずに押し黙っていた。
あの時の芽吹だ。
あの寒い冬の日、芽吹川の土手で、芽吹は省助を待っていた。偶然だったのかもしれない。
それでも、芽吹は省助がそこを通るかもしれない、とずっと待っていたのだ。

省ちゃん、俺ね、

言いかけて、詰まらせた。再び顔を俯けて、マフラーに口を隠してしまう。
省助は笑って、なんだよ、と急かした。

うん…

それでも芽吹は言わない。言いたいことがあるのだろうが、口ごもったままだった。
視線がさっきからずっと芽吹川に向いていて、省助はこっちに向くのを待っていた。呼びかけても、返事をしない。
遠くから、何か聞こえる。電話の呼び出し音だ。
携帯電話。そうだ、これは夢だ。そう気付いて省助は携帯電話に手を伸ばす。寝転んだまま受け取って、通話ボタンを適当に押した。

「…んぅー、芽吹ぃ?」

一瞬の間。そして、

「バカ、俺だよ!海里!」

は? と省助の頭の中は混乱してした。何で海里なのだ。
目が覚めないままうつろな返事をしていると、海里は電話越しでもよく通る声で、早口に言った。

「こんな時間に芽吹が電話してくるわけねーだろ!まだ学校だぜ? 色ボケもいい加減にしろっつーの」

厳しい言葉を散々叩かれて、省助は現実に引き戻された。
海里だ。この口の悪さは間違いなく、海里である。

「なんか用?」

重い瞼を上げて、ようやく頭がクリアになってきた。時計を見るとまだ三時前で、自分は今日、仕事が休みで、芽吹はまだ学校に行っているはずで、この声は確実に高校の同級生の海里だ。

「その態度、ホントムカつくね。芽吹もお前のどこがいいんだか」

顔を合わせては、合わせなくても同じようなことを言われるので、省助はもうその憎まれ口に慣れてしまっていた。
幼なじみである芽吹が省助とくっついてしまったことが、要するに気に入らないのだ。
とはいえ、芽吹きのことを抜きにしても、海里の省助に対する態度は変わりない。要するに、嫌われているのだ。
鈍感な省助にもそれはわかる。なにせ子供の頃からの付き合いなのだから。

「昔から芽吹は素直でホントいい子だったのに。うちの双子なんかよりずっと可愛くてさ。それがよりにもよって・・・」

「…そんで、なんの用なの?」

「あぁ?」

尋ねて、沈黙が返って、遠くで咳払いのような音が聞こえた。

「クラス会。いつもの高校のヤツ、来月最後の週末にやるから。出れんだろ?」

出て欲しいなどとは、口が腐っても言わない。
幹事だからしょうがないのかもしれないが、わざわざ省助に連絡を取る役目を自ら行うのは、海里自身も憎まれ口を叩いてストレス解消にしているからなのかもしれない。
そんなことは省助にはどうでもいいことなのだが。

「出れる。いつもの店だろ?」

「そう。じゃあ、省助出席、と」

何かメモを取っている様子。毎年のことながら、よく幹事なんてやると省助は感心する。
高校のときもクラス委員なんてものを頼まれてはやり、見事にこなしていた。海里でなければだめだと思わせるくらいに。
この小さな町の中、同級生というのは兄弟に近いもの。そういった親密さが嫌で出て行く人間もいるが、逆に戻りたいと思う人間も多い。
それは本当に最後の最後まで、判らないものだ。

「出席率ってどんなもんなの?」

「いまのところ六割かな。まあ、こっちにいない奴もいるしな」

「ふうん」

大学に行っていれば卒業して初めてのクラス会になる。海里にとっては社会人として初のクラス会だ。毎年このために地元に戻ってきていた海里ではあったが、今年はその必要はなかった。
高校を卒業してから一度も、お互いこのクラス会に欠席したことはない。
省助も海里も、高校卒業後は県外に進学が決まっていて、この町には戻ってこないと思われていた。自分達だってそう思っていたはずだった。
それなのにどういう訳か、二人とも戻ってきてしまった。
理由は多分、芽吹川なのだ。
クラス会のこの時期、芽吹川沿いに咲き誇るいろとりどりの花を、流れる風を、どうしても忘れられなかったのだ。
だから今となっては、これがいちばん良かったのだと思っている。

「戻って来て良かった」

「なんで?」

「仕事は楽しいし、人は温かいし、芽吹にまた会えたし」

戻ってこなければ、芽吹とはこうなっていなかっただろう。それも今となっては良かったと思えることのひとつである。
しかし受話器の向こう側の人物はその答えが気に入らなかったのか、半ば怒鳴り声に近い声で返してきた。

「お前は幸せの絶頂かもしれないけどな、そんなの今のうちだからな。絶頂からは転がり落ちてくだけなんだよ!」

それが捨て台詞のように、電話はぷつりと切れてしまった。
省助は携帯電話を見つめなおし、海里の眉の曲がった顔を思い浮かべる。今なら、どんなことでも可笑しく思える。
それが幸せだと言うことなのかも知れないな、そう思って省助は再び携帯を放り投げて寝転がった。
雨音は、小さな囁きに変わっていた。
携帯電話の呼び出し音。ディスプレイを開いて、今度こそ芽吹だと確認してから通話ボタンを押した。

「もしもし?」

「省ちゃん、起きてたの?」

受話器の向こう側から、芽吹の少し驚いた声が聞こえてきた。電話に出たのが早かったからなのだろうが、どういうつもりでかけてきたのだと、省助は可笑しかった。

「ん? 今さっき起きた」

「なに笑ってるの」

「んー」

海里の捨て台詞と、さっきまで見ていた芽吹の夢とを思い返して、省助は笑った。
一年前の芽吹。あれは胸しまった小さな想いを自分に打ち明けたときの芽吹だった。
驚きはしたが、嬉しくもあった。
思えばあれが、この幸せの始まりだったのだ。

「あとは転がり落ちるだけなんだってさ」

何の話? と、受話器の向こうで芽吹が不思議そうな声を出していた。

<了>

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