08 遊びと本気
遊びでやってんじゃねぇんだぞ! 弥次郎師匠に怒鳴られて、仕事じゅう、仕事が終わってからも、禅はずっと立ち直られずにいた。 怒られた原因は判っている。自分がいつまで経っても波の流れを読むのに失敗するからだ。原因は判っていても、すぐに出来るかというとそうではない。 相手は何十年と船頭をやってきたベテランで、禅は入って一ヶ月も経たないペーペーなのである。 俺だって二年目だけどペーペーだよ、と居酒屋でウーロン茶を注ぎ足しながら、兄弟子の省助が笑った。 「新米なんて失敗することが仕事だから。これ、俺が弥次郎師匠に言われたことだけど」 自分はビールをがぶ飲みをして、省助はドン、とジョッキを置いた。同じように飲めない訳ではなかったが、一応未成年ではあるし、きちんと働くと決めた以上、酒も煙草もやめたので、禅はそれを見るだけだった。 居酒屋「とくとく」のおすすめ料理、とろろ揚げを、専用のだし醤油につけて禅はかぶりついた。弥次郎と省助に連れられて食べに来てからは、酒は飲まなくともこの「とくとく」に足を運ぶようになった。 「省助さん、俺に出来るんスかね、あんなこと」 「努力と忍耐の問題だな、そりゃ」 はあぁ、と大きく溜息をつく。 努力と忍耐なんて、子供の頃から大嫌いな言葉だ。 省助が「生ひとつ」、と若い店員に言うのを聞いて、禅は手に持ったウーロン茶を飲み干した。本当はこんな気分の時には酒でもあおりたいところだが、それは誓いだ。 そう考えると、自分にもやっと忍耐というものがついたのかと思えた。 「続けてりゃなるようになるさ」 向かいで、省助がいつもの、おおらかな笑顔で言った。その笑顔にほっとして、禅は再び誓いを立てる。 やめるもんか。この人によくやったと認められて、一人前になるのだ。辞めたりなどしない。 注文した省助の生ビールが届いて、禅はガチン、と空いたウーロン茶のグラスで乾杯をした。 それから禅は、だんだんと饒舌になる省助の船頭生活の話を聞いた。 一度はこの町を出て別の道を行こうと思ったこと。 それでもやはりこの仕事を選んで帰ってきたこと。 どんなに、この町とこの芽吹川が好きであるか。 そんな風に生きてきたことが、省助の魅力で、持ち味で、禅の惚れたところでもあるのだ。 惚れたと言っても恋とか愛とか、そういった感情ではもちろんない。純粋に先輩として、人生の師匠としての憧れの存在なのである。 それに、省助には恋人がいることは薄々感じていた。 「芽吹ぃ、今すぐこーい。チャリンコこいでこーい」 携帯電話相手に省助が言う。 酔いが回って他に誰かを呼ぼうと、禅が止めるのも聞かずにコールしていた。その相手に禅と同い年の未成年、しかもまだ高校に通っている芽吹を選んだのは、禅の思い当たるところにあった。 「ああ?ない?なんで」 尊敬する先輩のことである。どんな話だって忘れはしない。 省助の会話には頻繁にその「芽吹」が登場する。芽吹川と同じ名前であることから、印象強くその存在は胸に刻まれていたが、それにしても話題の数が多かった。 余程親しいのだと思えばそれまでだけれど、なんとなく、なんとなくの勘である。 省助は芽吹が好きなのではないか、と思ったのだ。 それがこの電話で、なんとなくの勘から確定に変わった。 そんな禅の思いは他所にして、省助の呼び出しは止まらない。 「んなのどうでもいいだろぉ。酔ってねーよ」 酔っ払いは酔ってないと自称するものである。これはさすがに止めた方がいいだろう。いくらなんでも十二時を過ぎたこんな時間に呼び寄せるなんて、ちょっと強引過ぎる。 禅は省助の携帯電話をもぎ取って、省助が「こら、返せ」と言うのを無視して受話器に口を当てた。 「すんません、このヒト飲み過ぎみたいで」 なお奪い返そうとして伸ばされた腕を、禅は払い除ける。ふらふらと定まらない動きで省助の腕が揺れて、禅の上着の裾を掴んだ。 「あの、俺飲んでないし、送りますから来ないでいいっすよ」 『でも、』 受話器の向こうで、一度だけ会ったことのある男の心配そうな声がした。会った、と言ってもあの時は自己紹介をしただけでろくに会話などしなかった。 だからこれが、会話としては初めてになる。なのに内容といったら、酔っ払いの始末について、なのだ。 突然の電話の意味不明な呼び出し、見知らぬ男が代わりに電話に出たりなんかして、相手の頭の中は混乱しているだろう。 それにもう一度、禅は安心させるように言った。 「ホント大丈夫っすから。省助さん、単に陽気になってるだけだし」 『ごめんね、いつもはそんなことないんだけど。ありがとう』 「い、いえっ、こちらこそすんませんっ」 謝る立場は自分たちの方なのに何故かお礼を言われて、禅は見えてもいないのに頭を下げてしまった。 それが自分で恥ずかしくて、妙に慌てて電話を切った。 当の本人は、テーブルの上に腕を敷いて眠りこけていた。揺り起こしたが、「うーん」とか、「あー」とか、返事にならない声を出して、動かなくなってしまった。 これは本当に、担いででも送って行かなければならないかもしれない。 「省助さん、起きてください。帰りますよー」 「うー」 机の上から省助のたくましい腕がぶら下がっていた。力の入っていない重い腕を持ち上げて、自分の肩にかける。 手のひらに触ると、思っていたよりも固く、ごつごつしているのに驚く。 まめの痕だ。 何度もつぶれ、その上に何度もでき、固くなってきた省助の手のひら。 こんな風になるまで、省助は棹を握り締めてきた。決して放さずに。 禅は自分の、まだ柔らかい手のひらを広げて見つめた。この手のひらが硬くなるまで、続けたいと思う。 その決心を確認するように、禅はぎゅっと、拳を握り締める。 今度こそ、何よりも本気で貫きたいことだから、投げ出さない強さが欲しかった。 <了> |
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