05 欲求不満


学年唯一の理系進学クラスに、三宅(みやけ)桃(もも)は籍を置く。小さい頃から頭が良くて、要領が良かった。無駄なことは嫌いで、理由のない行為はもっと嫌いだった。
双子の妹の菜名(なな)は、どちらかというと天真爛漫で、大雑把にも程がある、というくらいの性格だ。双子ではあるが、似ていると言われることはあまりない。
二卵性だから、と理由をつけても、それでは足りないくらいだ。
幼なじみの芽吹から借りてきた英和辞書をぱらぱらとめくると、頻出単語にマメにも赤い線が引かれてあった。
芽吹はあれで頭が悪くない。希望すれば文系進学クラスに入ることなど容易いくせに、実家のお茶屋を継ぐからと言って就職クラスに決めてしまった。
菜名も、看護士になりたいと言って、専学クラスに決め込んだ。ずっと前から目指していたらしい。
芽吹や菜名たちよりも、ずっと多くを選べる立場にあるのに、何故だかすっきりしない。何も考えていないのは、むしろ自分の方のような気がしていた。
教壇ではリーディングの教師が、受験でよく問われる箇所、とか何とか言ってチョークでチェックをつけていた。
言われた通りにマーカーでラインを引いて、単語に目を落とす。覚えるのが面倒だった。
今日はちっとも集中が出来なかった。何もかもが嫌だ。そんな日くらいたまにある。
授業が終わって教科書をしまうと、早速辞書を返しに行こうと桃は席を立った。借りたものは早々と返すに限る。
廊下に出ると、チャイムと同時に飛び出した生徒たちの、楽しそうな会話が飛び交っていた。女子の集団を通り抜けて、トイレを挟んだ向こう側の教室まで行く。
四組の前に、廊下の窓を背にして真鶴が立っていた。無視しようとしたけれど、長い足を前に出されて、桃は足を止めた。
横目で真鶴を見る。嫌な笑いを口端に浮かべて、真鶴は桃の眼鏡を指で引っ掛けて抜き取った。

「眼鏡、かけるんだ」

物珍しげに眼鏡を見回す真鶴に、距離を保ったままで桃は答えた。

「今朝コンタクトなくしたんだよ。聞いてただろ、さっき」

食堂で、芽吹のうしろでその会話を聞いていたはずだ。あの距離なら聞こえないなんてことはない。
芽吹と一緒にいたのは予想外だったが、同じクラスなのだから会話を交わしていてもおかしいことなどない。どちらかというと今の自分たちの方が不自然なのだ。
同じクラスになったことはない。当然だ。真鶴はひとつ年上で、去年は自分たちの学年にはいない。共通点などどこにもなかった。

「聞いてたけど」

いつまでも桃の眼鏡を弄んで、真鶴は返そうとしなかった。奪い返すほどのものではないが、ここでいつまでも相手をしている訳にもいかなかった。
芽吹に辞書を返さなくてはならないし、何より、ここで真鶴と話している姿を見られて、不審に思われたくなかった。
それを判っているのだろう。真鶴は桃を行かせようとしない。

「眼鏡も似合うのな、お前」

そんなこと、どうだっていい。用件の見えない真鶴の話し方にイライラして、桃は眉間に皺を寄せた。朝から続いているこの不機嫌をうまく隠すことが出来なかった。
本当に、朝からついていない。
コンタクトレンズは洗面所でなくすし、信号には引っかかるし、辞書は忘れるし。何もかもが嫌だ。
ますます深まっていく桃の眉間のしわに、軽いデコピンを喰らわして、真鶴は眼鏡を返した。無造作にかけられたレンズを覗き込まれて、そのあまりの顔の近さに思わずぶん殴ってやろうかと思ったくらいだ。
だけど真鶴の瞳にまっすぐに見つめられて、桃はそれが出来なかった。

「放課後来いよ。その欲求不満、満たしてやる」

偉そうに、上からものを言うような笑顔を作って真鶴が言った。頭に来て、そっぽを向いた。真鶴はあっけなく引き下がって、桃をすり抜けてトイレに入って行った。
なんでもかんでも判っているような顔をして、留年したくせに先輩面なんてして、本当に腹が立つ。
さっさと辞書を返して自分のクラスに帰ろうと、桃は四組の入り口から教室を覗いた。

「あれ、桃」

教室の中から、芽吹が桃に気付いてやってきた。真鶴との会話は見られていなかったのか、なんの疑問も持たない顔を向けられて、桃は無言で辞書を差し出した。

「いつでも良かったのに」

渡す時もそんなことを言って芽吹は笑っていた。
いつも本当に、楽しそうに笑う。この世に不満なんてないかのように。
羨ましい性格だと呆れる反面、ほんの少し悔しく思う。
世界にはこんなにうまくいかないことで満ち溢れているのに、それを埋める方法が見つからない。

「桃?」

黙っている桃の顔を覗きこんで、芽吹が名を呼んだ。

「どうかした?」

「・・・別に」

そっぽを向いて、桃はすぐに背を向けた。これ以上話していたら、当り散らしてしまいそうだった。
結局、このくぐもった気分を解消してくれるものは、あの男でしかないのだろう。

<了>

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