03 マーキング


何怒ってんの、と夜になってから言い出した省助は、それでも顔に笑みを浮かべていた。
夕飯に、と買ってきた弁当箱を三つ、芽吹が片付けていた時だった。三人いたわけではない。 省助が二つ平らげたのだ。
ゴミ袋に空箱を突っ込んで省助の方を振り向いて、「怒ってないよ」と答える。
お腹いっぱいになった省助は、今にも寝転がりそうな体勢で芽吹のことを見上げてい た。仕事を終えて疲れて帰って、ひと息ついたのだろう。
芽吹は省助の隣に戻って、弁当と一緒に買ってきたペットボトルのお茶を開ける。お茶な らうちの店から持ってきた茶葉が山ほどあるのだが、不精してペットボトルを買ってきて しまった。お湯を沸かすのすら面倒臭かった。
まあいいか、とペットボトルを口に運ぼうとして、さっきからずっとこちらを見ていたら しい省助と目が合った。

「じゃあ、拗ねてんの?」

それは少しだけ当たっているような気がして、芽吹は答えなかった。
近所のおばさんたちに笑顔で応えるのも、観光客に優しいのも、人のいい省助の性格で。 師匠たちに可愛がられるのも、妙な後輩に慕われるのも、その明るさと人懐こい笑顔のた まものな訳で。
そういう人情味ある温かさに、芽吹自身も惹かれているのも、事実ではあるのだが。
それでも少しばかりは、省助のその優しさを自分だけに向けてさえくれればいい、と心の 狭いことを思うときがある。
開けたペットボトルのお茶を、口に運んだ。飲み込んでふたをしたところで、省助に腕を 引っ張られた。
引き寄せられて、芽吹の身体は、だらしなく投げ出された省助の長い足と大きな胸に囲ま れて、すっぽりとその中に収まってしまう。
満足げに省助が芽吹の頭を両手で包み込んで、わしゃわしゃとかき混ぜた。

「ん?」

省助なりの愛情表現。嫌いじゃない。
くしゃくしゃになった髪がはらりと落ちてきて、芽吹の視界に影を落とした。それを片手 で払い除けて、省助を正面から見る。

「ずっと船頭やるの、省ちゃん」

「うん」

迷いのない返答が戻ってきて、芽吹は息をついた。どうしてこんなこと聞いたのだろうと、思う。
そんなの当たり前のはずなのに。この町を出てまで行っていた大学を、途中で辞めるとい う強い決心をして選んだ道なのだ。やるに決まっている。
その理由を、ちゃんと聞いたことはなかった。そういうことを省助は語る人間ではない。
けれども、省助の一生懸命な姿や本当に楽しそうな笑顔を見ると、そのために帰って来た のだと、省助にしか得られないもののためにこの道を選んだのだと判った。
省助が大学へ通うために上京して行ったとき、芽吹はたったの十三歳。中学に入ったばか りの子供だった。
今でも、自分はずっとずっと子供だと思う。
日増しに硬くなっていく掌が伸びてきて、芽吹の頭ごと抱き寄せた。頭の上に省助があご を乗せた体勢で芽吹を受け止める。しゃべると、その振動が頭から伝わった。

「ヤツゼン、お前と同じ年なんだってよ」

「え?」

「八房、禅。略してヤツゼン」

和菓子の名前みたいだ、と思ったけれどそれは口にしなかった。ふーん、と答えて、芽吹 は省助の胸に埋まった。
それに肩をポンポンと優しく叩かれて、あやされている子供みたいだ。

「高校行ってなくて、バイトしてたらしいんだけど、船頭に惹かれちまったらしい」

じゃあ、省ちゃんと一緒じゃん。心の中で呟く。
長い休みにならないと帰ってこなかった省助を心待ちにしていたあの頃よりも、随分と近 付いたような気はしていたけれど、それでもやはり省助の心は芽吹川にあるようで。芽吹 としては複雑な気持ちなのだ。
突然、耳の裏にキスされた。柔らかい唇がくすぐったかった。

「ああ見えていい奴だから、すぐに仲良くなれるよ」

耳元で省助の声が囁いた。怒ってる、から、拗ねてる、になって、どうしてこういう結論 にたどり着くのだろう。言い訳も機嫌取りもしないで、禅と仲良くなれと言う省助が素で あるから手の打ちようがない。
別に拗ねているわけではないが、と自分自身に言い聞かせて、「そうだね」と芽吹は答えた。
この腕がこうして傍にあるのなら、それでいい。省助の匂いと温かさに安心して、芽吹き は静かに目を閉じる。
首筋に、固い感触。強く噛まれて、芽吹は省助から逃げた。

「痛かった?」

顔を上げた芽吹を覗き込んだ省助が、ほんの少し心配そうに、それでも子供のように笑っ て、言ってきた。
赤面、ってこういうことを言うのだろう、と顔の温度が極端に上がるのを感じて、芽吹は 視線をそらした。掴まれた手もどんどん熱くなっていく。

「あ、明日学校あるしっ、痕、マズイよっ・・・」

咄嗟に思いついた言い訳のように、芽吹が声を上擦らせる。それにまた笑って、省助は当 然のように芽吹を抱き寄せた。

「だから。芽吹は俺の、ってしるし」

同じ箇所に唇をあてて、省助はきつく皮膚を吸った。立てられた歯がじんわりと痛みを伝 えたけれど、芽吹は今度は逃げなかった。
なんの臆面もなく伝えられた省助の小さな主張。
芽吹にはもう、それだけで充分だった。

<了>

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