01 初めて


マメが出来ては潰れ、硬くなったその大きなごつい掌に掴まれて、芽吹(めぶき)は往生していた。
というのも、顔を洗うのにも覚悟を決めなくてはならないというほど大嫌いな水に、かろうじて 浮いている、という程度の船に無理やりに乗せられそうになっていたからだ。
強引に引っ張られ、バランスを保つために片足だけ船に乗せると、ガコッ、と木の音がして船が揺れた。

「しょ、省ちゃんっ、ほんと無理っ・・・」

「なんで。ちゃんと掴んでんだろ」

しっかりと、芽吹の両腕を掴んだ省助(しょうすけ)が船の上で待っていた。それでも芽吹は片足 だけ突っ込んだまま、それ以上踏み込もうとしなかった。むしろ腰が引けている。
顔面蒼白になっている芽吹は、もう勘弁してくれというように首を横に振っていた。

「だぁいじょうぶだって、芽吹ちゃんよ。上で暴れなきゃひっくり返ったりしねぇから」

後ろで二人の様子を面白おかしく眺めていた弥次郎(やじろう)師匠が、しわくちゃの笑顔を見せ て景気よく言う。
ひっくり返るなんて、冗談でも言ってほしくない。ゆるやかとはいえあちこちで飛沫のはねている こんな川の中に、不安定に揺らぐ乗り物になど乗りたくはなかった。
この町の名物、芽吹川の川下り。
春もうららかなこの季節になると、川岸の花たちが咲き誇り、苔の緑が生い茂る。険しい岸壁に色 とりどりに現われる季節の風物詩を眺めるには、上流から下流へと約二十分かけて川を下るこの芽 吹川下りは絶好の花見ポイントなのだ。
生まれも育ちもこの町で、芽吹川とはその名前を貰うほどに馴染みが深い芽吹ではあるが、この川 下りは一度もしたことがない。
それもこれも水が大の嫌いなせいだった。
原因は定かではないが、幼い頃に海でおぼれてからだろうと芽吹は思っている。泳げないのは勿論 、ちょっとの水にも浸かれない。家の風呂ならばそこまで気にならないが、温泉や銭湯といった水 の量の多いものだと少し尻込みするくらいだ。
その水嫌い、省助だってわかっていたはずだった。

「ずっと掴んでてやるから、ほら」

放さない手を強く握り締めて、省助は屈託のない笑顔を見せた。
省助の額に滲み始めた汗が、少し長くなった前髪の向こうに見えた。最初はおかしかったねじりは ちまきも、今は随分とさまになっている。それがなかったら省助じゃないと思うくらいに。

「む、無理」

「俺がついてるっつってんのに駄目なわけ?」

「だ、だって乗ったら省ちゃん船漕ぐじゃん・・・」

「そりゃそうだ」

わはは、と後ろと前から豪快に笑い声が聞こえた。こっちは笑いごとなんかじゃないのに、と思っ ているといきなり省助に抱え上げられて芽吹は悲鳴に似た声を出した。
驚きと怖さでそれから逃れようと動こうとして、弥次郎師匠に「暴れると落ちるぜ」と脅かされた。
軽々と担いだ芽吹の体を船にゆっくりと下ろし、省助自身は船尾に戻る。船の上にへたり込んでい る芽吹など気にも留めず、弥次郎師匠に行って来ますなんて挨拶をする。
芽吹はというと、船の上でカチコチに固まって、一歩も動くことが出来なかった。省助の歩く小さ な振動でさえも、芽吹には大地震なみに恐ろしく感じるのだ。
それから、船はゆるゆると陸を離れていった。
離れるにつれて不安が募る芽吹ではあったが、既に身体は水の上、逃げ出そうにも出せない状況に ある。これから約二十分、恐怖との戦いだ。

「芽吹ぃ、顔上げろよ」

じっと縮こまって俯いていた芽吹に、省助が声をかけた。川のゆるやかな流れをうまく読み取って 、岸壁へと舵をとった。
恐る恐る顔を上げると、小さな紫色の花が岸壁いっぱいにと咲いていた。みずみずしい緑の苔、山 吹色の花の咲く枝が垂れ下がる丘、鳥のさえずり。
芽吹川の春の芽吹きが、確かにここにはあった。

「約束しただろ、俺がひとりで客乗せられるようになったら、いちばん初めに芽吹を乗せてやるって」

震えそうになる体を押しとどめて振り返ると、省助が嬉しそうに笑っていた。それから、「それま でには水嫌い治しとけって言ったのになぁ」と、呆れたように言った。
そんな一年も前の約束を、覚えているとは思わなかった。その言葉も、冗談だと思って本気で水嫌 いを克服しようなどと努力しなかった。
省助が船頭になると大学を辞めてこの町に戻ってもうすぐ二年。その間、修行だとか勉強だとかで ちっとも相手にしてもらえなかったけれど。
そんなことなかったんだ、と芽吹は驚いたのと同時に少しこそばゆく思った。

「省ちゃん」

「んー?」

名前を呼ぶと、春の日差しを浴びた省助が楽しそうにこちらを見た。
ギコ、ギコと船の音。少し怖いけれど、水のはねる音までも陽気に聞こえてきて。
思わず、

「きれいだね」

揺れる船を怯えながら、岸辺の春の目を向けると、省助は「そうだろう」と満足そうに空を仰いだ。


<了>

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